時代背景
ラクシュミー・バーイー
1857年におきた「インド大反乱」における最も有名な指導者の一人。ジャーンシー藩王国の王妃でありながら、自ら戦場に立ちイギリス軍と戦ったことから、「インドのジャンヌ・ダルク」とも称されている。
彼女の生年や幼少時代の生活は明らかになっていないが、本名はマニカルニカで、父親はマラーター王国の宰相バージーラーオ2世の助言者として働くバラモンだったという。バージーラーオ2世は彼女を実の子供のように育て、当時の女子にほとんど縁がなかった教育や、武術、剣術、乗馬の訓練を受けさせた。1842年、マニカルニカはジャーンシー藩王国の王ガンガーダル・ラーオと結婚。結婚後、ヒンドゥー教の富と幸運の女神ラクシュミに敬意を表し、ラクシュミー・バーイーと改名する。
1851年にようやく男子を授かるも生後わずか数カ月で逝去、さらに1853年には王も病で命を落としてしまう。これにより、王に嫡子がいない場合には養子を認めず、東インド会社が併合の権利を得る「失権の原理」が適用され、1854年にジャーンシー藩王国はイギリスに併合された。1857年5月、「インド大反乱」が勃発すると、彼女は私財を投じて集めた傭兵と義勇軍を率いてジャーンシー城を奪還。彼女に率いられた反乱軍の戦いはあまりにも見事であり、イギリス軍の司令官は敵ながらその戦いぶりを称賛する言葉を残している。彼女は城が陥落した後も戦い続けたが、最期は前線で指揮中に狙撃され戦死した。1947年のインド独立後、ラクシュミー・バーイーは大反乱の英雄として再評価され、各地に銅像が建てられるなど、今もなおインドの人々に愛されている。